悪魔の手毬唄

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2018-05-15-23.57.03.jpg先日ラジオを聴いていたら、とある映画評論家が映画音楽のコーナーで市川崑監督の「悪魔の手毬唄」を絶賛していた。石坂浩二が金田一京助を演じている1977年の映画である。

その中で評論家は、この映画は2回観たほうが良い、と力説していた。なんでも、1回目は犯人探しの目的で観て、2回目は周到に張り巡らされた伏線や最後にわかる登場人物の背景を知りながらその演技のすばらしさを堪能するのが良いという。


横溝正史の原作はそうとう昔に読んだ記憶があるものの、内容を見事に忘れていた。また、その解説に惹きつけられて無性に読みたくなり再び手に取った。

映画の評を聴いて何故原作かというと映画は怖いからだ。小説だとそれほど怖くないと思った。

あらすじをコピペすると

岡山と兵庫の県境、四方を山に囲まれた鬼首村。たまたまここを訪れた金田一耕助は、村に昔から伝わる手毬唄の歌詞どおりに、死体が異様な構図をとらされた殺人事件に遭遇した。現場に残された不思議な暗号はいったい何を表しているのか?事件の真相を探るうちに、二十年前に迷宮入りになった事件が妖しく浮かび上がってくるが......。戦慄のメロディが予告する連続異常殺人に金田一耕助が挑戦する本格推理の白眉!

舞台となる寒村の名前は「鬼首山(おにこうべやま)」。横溝正史ワールド全開である。
対立する村の名家、またその村の人々のキャラが濃ゆいし人間関係が複雑怪奇である。うっかり斜め読みすると「これ誰?」となるため集中力を要する。

ここでネタバレはしないので感想だけ述べる。

戦後まもない時代を描いたミステリは松本清張にしても横溝正史にしても登場人物の闇の抱え方が現代人の想像を超えるものがある。何があってもおかしくないレベルのカオスを生きてきた人々が一見平穏な日常を送っている様子。この状況設定からして現代社会を舞台に描くミステリとは比較にならない奥行きを感じる。

映画と違い、読むのをためらわれるような凄惨さやおどろおどろさはさほど感じないと思う。一方、登場人物で、ものすごくまずい葡萄酒を作っている工場の経営者(そのマズイ葡萄酒をちょこちょこ飲んでいてアル中になっている)がいつも酔っ払っていて村人がみんな思っているけど言わない(言えない?)正論を空気も読まずわめいたり、金田一シリーズ常連の磯川警部が事件の肝心なところで二日酔いで使い物にならず本人が落ち込んでいるシーンがあるなど、なかなか愉快な場面があったのが意外であった。

金田一京助は事件解決に主体的に関わるのではなく、すべて受け身で何ら解決しない。最後に事件の背景、経緯について詳しい解説をするが、未然に防いだり、犯人逮捕に役に立っているわけでもない。

これは映画評でも言われていたので気をつけて読んで納得した。金田一は事件の傍観者でしかない。事件の発端から結末まで介入せずに村の人々の運命には関与しない。つまりは神の立場として描かれている。

定められた運命を部外者が改変することはできない、ということが示されているのだろうか。

おどろおどろさや事件の謎に気をとられるが、その裏には深いテーマが込められている。